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関ケ原合戦編

慶長5年(1600年)9月15日、天下の覇権を狙う徳川家康とそれを阻止せんとする石田三成が関ケ原を舞台に繰り広げた天下分け目の戦い「関ケ原合戦」。
関ケ原合戦は、わずか1日で決着しましたが、家康と三成の対立は、2年前の豊臣秀吉の死去から始まっており、この間、全国の名だたる武将を巻き込み、全国各地で戦いがありました。
その中でも、東西両軍の主力が激突した、岐阜県の岐阜・西美濃地域の関ケ原合戦関連史跡を紹介します。
決戦の舞台となった関ケ原はもちろん、その他の史跡も合わせてめぐることでより深く関ケ原合戦を体感してください。

関連史跡マップ

岐阜・西美濃広域マップ

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関ケ原マップ

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せきがはら史跡ガイド

関ケ原町内の史跡めぐりの際には、ぜひ「せきがはら史跡ガイド」をご利用ください。

関ケ原を熟知したガイドが、希望の時間やコースに合わせて関ケ原の名所古跡を案内してくれます。

詳細:「せきがはら史跡ガイド」のご案内

関ケ原合戦の関連史跡紹介

岐阜・西美濃地域で繰り広げられた前哨戦を含む関連史跡を紹介します。

①岐阜城攻防戦

②杭瀬川の戦い

③決戦!関ケ原

④南宮山一帯の動向

⑤島津の退き口

⑥南美濃の戦い

岐阜城攻防戦

関ケ原合戦の1カ月ほど前の慶長5年(1600)年8月22日、清洲城に集結した東軍先鋒約4万は、二手に分かれて木曽川を渡河。西軍の織田秀信を米野の戦いで破るとともに、竹ヶ鼻城・加賀野井城を落としました。秀信は岐阜城に籠城するものの、翌23日に降伏。東軍は合渡川の戦いでも西軍を破り、24日には石田三成らの西軍本営がある大垣城から目と鼻の先の赤坂まで進軍しました。

岐阜城

織田信長の天下布武で有名な岐阜城は、関ケ原合戦当時、信長嫡孫の織田秀信が城主でした。米野の戦いで敗れた秀信は岐阜城に籠城しますが、東軍は8月23日朝から一斉に攻撃を開始し、福島正則が大手の七曲口から、池田輝政が搦手の水の手口から攻め上がり、堅城といわれる城は、その日のうちに落城してしまいました。降伏した秀信は円徳寺で剃髪し、関ケ原合戦の後に高野山へ入りました。

所在地 岐阜市金華山天守閣18
入場料 大人200円、小人100円
時 間 8:30~17:30(5/12~10/16)、9:30~16:30(10/17~3/15、元旦のみ6:30~16:30)、9:30~17:30(3/16~5/11)
休館日 無休
電 話 058-263-4853
岐阜城
米野の戦い跡

8 月2 2日、木曽川上流の河田を渡河した池田輝政・浅野幸長・山内一豊らの東軍約18000を、岐阜城を出陣した織田秀信の家臣・百々綱家・飯沼長資ら約3200が迎撃。寡勢の織田勢は奮戦しますが、支えきれずに後退し、岐阜城に退却しました。木曽川堤防と町営墓地に戦場跡を示す碑や慰霊碑があります。閻魔堂(岐阜市)は秀信が本陣を置いた場所です。

所在地 羽島郡笠松町米野

米野の戦い跡
加賀野井城跡

8月22日、木曽川下流の尾越に向かった福島正則・細川忠興・黒田長政・田中吉政・藤堂高虎らの東軍約16000は、対岸に西軍が柵を設けて待ち構えていたため、さらに下流の加賀野井から密かに渡河し、城主不在の加賀野井城を瞬く間に落としました。堤防近くの細い畦道の脇に案内板が立っています。

所在地 羽島市下中町加賀野井

加賀野井城跡
竹ヶ鼻城跡

8月22日、加賀野井城を落とした東軍は、竹ヶ鼻城へ向かいます。 尾越対岸の大浦に布陣していた竹ヶ鼻城主・杉浦重勝は、慌てて城に戻り、本丸で30余名になるまで防戦した後、城に火を放って自刃しました。竹ヶ鼻城の場所は現在も特定されておらず、羽島市歴史民俗資料館前に城跡を示す碑と案内板が立っています。

所在地 羽島市竹鼻町2624-1(羽島市歴史民俗資料館)

竹ヶ鼻城跡
合渡川の戦い跡

米野の敗報を聞いた石田三成は、渡し場のある合渡に家臣の舞兵庫を、墨俣に島津義弘を派遣しました。8月23日、東軍の黒田長政・田中吉政・藤堂高虎は合渡川を渡河して西軍を攻撃。不意をつかれた西軍は敗走し、大垣城に退却しました。河渡橋が渡し場のあった場所で、遠くに岐阜城を望見できます。

所在地 岐阜市河渡

合渡川の戦い跡

杭瀬川の戦い

8月24日、赤坂に進出した東軍は、岡山に徳川家康の本営を築き、大垣城の西軍と3週間余りも対峙します。決戦前日の9月14日、ついに家康が着陣すると、動揺する西軍将兵の士気を高めるために、石田三成の重臣・島左近らが大垣城を出陣、杭瀬川で東軍の中村一栄を撃破しました。その後、大垣城の三成らは夜陰に紛れて関ケ原に転進、東軍も移動を開始し、決戦の舞台は関ケ原へと移ります。

大垣城

8月11日、美濃に進軍した石田三成は、西美濃の要衝・大垣城に着目し、城主の伊藤盛正を説得して開城させ、西軍の本営としました。小西行長・島津義弘・宇喜多秀家らも入城し、赤坂の東軍と対峙します。ところが、9月14日夜に西軍主力は関ケ原に転進。大垣城は三成の妹婿の福原長尭らが守備することとなり、23日まで戦いが続きました。

所在地 大垣市郭町2-52
入場料 大人100円、18歳未満無料
時 間 9:00~17:00(入館16:30まで)
休館日 年末年始 ※臨時休館あり
電 話 0584-74-7875
大垣城
杭瀬川古戦場

9月14日、大垣城を出陣した島左近・蒲生備中ら約500は、一隊を伏せて杭瀬川を渡り、東軍の中村一栄隊を挑発、出陣してきたところを偽りの退却で誘い込み、これを打ち破りました。広大な河川敷が往時を偲ばせるほか、赤坂にはこの戦いで討死した中村家家老・野一色頼母を葬った兜塚も残っています。

所在地 大垣市笠木町・南一色町・福田町

杭瀬川古戦場
徳川家康岡山本陣跡

岡山は赤坂の南にある標高約50メートルの小山で、東軍の本多忠勝と井伊直政はここを徳川家康の本営に定め、砦を築いて周囲に諸将を配置しました。また、西軍の長松城・池尻城を占拠し、西保城・本郷城を焼くなどして、家康の到着を待ちました。関ケ原合戦後、家康は岡山を勝山と改めています。

所在地 大垣市赤坂町

徳川家康岡山本陣跡
曽根城跡

西美濃三人衆の稲葉一鉄も城主を務めた曽根城は、関ケ原合戦当時、西尾光教が城主でしたが、光教が東軍に与したため、石田三成は近隣諸将に打ち壊しを命じます。その後、東軍が赤坂に進出すると、松平康長・水野勝成らが入城し、大垣城攻撃の拠点となりました。現在、本丸跡は華渓寺になっており、曽根城公園はハナショウブで有名です。

所在地 大垣市曽根町1丁目772-1
電 話 0584-81-7535(華渓寺)

曽根城跡
白山神社(旗懸けの松)

9月14日、岐阜から赤坂に向かった徳川家康は、神戸の白山神社で休憩した折、松の大樹に旗を懸けたところから、その松は「旗 懸けの松」と呼ばれるようになりました。また、そのとき神戸町八条の禅宗瑞雲寺の住職が大きな柿を献上したところ、家康は石田 三成らが籠もる大垣城を指して、「大柿(大垣)はわが手に入れり」と喜んだといいます。

所在地 安八郡神戸町神戸744-1

白山神社(旗懸けの松)

決戦!関ケ原

9月15日午前8時頃、東軍の井伊直政隊が西軍の宇喜多秀家隊に発砲したことにより、決戦の火蓋が切って落とされました。石田三成らの西軍は東軍相手に午前中は善戦、戦いは一進一退となり、焦った東軍の徳川家康は、桃配山から本陣を前線に進めます。しかし、正午頃に小早川秀秋が東軍に寝返ると、脇坂安治らの4将も東軍についたことで西軍は総崩れとなり、東軍の大勝利に終わりました。

笹尾山・石田三成陣

関ケ原の北西、西軍の石田三成が布陣したのが笹尾山です。三成は前衛に島左近と蒲生備中を配し、二重の柵を作り、総勢約7000で笹尾山を固めました。対する東軍は黒田長政・細川忠興らあわせて20000もの兵が攻めかかり、激戦となりました。駐車場から5分ほどで山頂に登ることができ、見晴台からは関ケ原古戦場が一望できます。

所在地 不破郡関ケ原町大字関ケ原4008

笹尾山・石田三成陣
床几場・徳川家康最後陣地

午前11時頃、西軍の思わぬ善戦に焦った東軍の徳川家康は、桃配山から最前線の近くまで本陣を移し、東軍の士気を鼓舞しました。勝敗が決した後、家康は後に床几場と呼ばれるこの場所で、論功行賞の判断材料とするための首実検を行っています。現在の土塁や高台は、江戸時代に幕府の命を受けた領主の竹中氏が築いたものです。

所在地 不破郡関ケ原町大字関ケ原959-2

床几場・徳川家康最後陣地
桃配山・徳川家康最初陣地

関ケ原の東、中山道沿いにあり、徳川家康は直属約30000とともに当初、主戦場から遠いこの小山に布陣しました。名前の由来は壬申の乱の折、大海人皇子が兵に桃を配った故事によるもので、家康はこの故事を知った上で布陣したといいます。山上に陣跡碑や家康の腰掛石・机石などがあります。

所在地 不破郡関ケ原町大字野上1424-1

桃配山・徳川家康最初陣地
岡山(丸山)烽火場 黒田長政・竹中重門陣跡

岡山(丸山)は東軍の黒田長政と竹中重門の兵約4000が布陣した場所で、長政はこの地で開戦を告げる烽火をあげ、石田三成と激闘を繰り広げました。また、黒田・竹中隊と共に美濃黒野城(岐阜市)の城主である加藤貞泰も布陣し、東軍の勝利に貢献しました。竹林を抜けて頂上に登ると、視界が一気に開けます。

所在地 不破郡関ケ原町大字関ケ原732-27

岡山(丸山)烽火場 黒田長政・竹中重門陣跡
大谷吉継陣跡/大谷吉継の墓

西軍の大谷吉継が中山道の抑えとして布陣するとともに、小早川秀秋の裏切りに備えて精鋭約600を待機させました。松尾山を望む見晴台があります。関ケ原で自刃した吉継の墓は少し離れた山の緩斜面にあり、忠臣・湯浅五助の墓と並んでいます。

所在地 不破郡関ケ原町大字山中30-1

大谷吉継陣跡/大谷吉継の墓
松尾山・小早川秀秋陣跡

小早川秀秋が約11000の大軍で布陣し、東軍に寝返ったことで有名な松尾山ですが、実は石田三成が西軍総大将の毛利輝元を迎え入れるために修築させた山城でした。山頂一帯には壮大な城跡が残されているほか、山頂は東西の布陣を一望できる絶好の場所にあり、秀秋の去就に迷う気持ちが体感できます。

所在地 不破郡関ケ原町大字山中731-1

松尾山・小早川秀秋陣跡

関ケ原町にあるその他の関連史跡について詳しく知りたい方は関ケ原観光WEBで紹介されています。

関ケ原観光WEB

南宮山一帯の動向

9月7日、垂井の南宮山一帯に西軍の毛利秀元、長宗我部盛親らが布陣し、赤坂の東軍を牽制しました。9月15日決戦当日も東軍の池田輝政らと対峙しましたが、吉川広家の内応もあって最後まで動けず、戦わずに退却しています。また、垂井の2人の武将、岩手城主の竹中重門は東軍・黒田長政とともに、垂井城主の平塚為広は西軍・大谷吉継とともに、東西に分かれて関ケ原合戦に参戦しています。

竹中氏陣屋跡(岩手城跡)

豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛の嫡男・重門が築いた城跡で、現在も正門や石垣が残っています。岩手の西にある菩提山は半兵衛時代の居城跡ですが、複雑な虎口や巨大な堀切、竪堀群など、大規模で高度な縄張りをもつことから、関ケ原合戦に備えて改築されたのではないかと考えられます。

所在地 不破郡垂井町岩手619-2

竹中氏陣屋跡(岩手城跡)
垂井城跡

垂井城は西軍・平塚為広の居城で、為広は大谷吉継とともに挙兵を思いとどまるよう石田三成に諫言したものの、聞き入れられず、関ケ原合戦では西軍に属し、吉継に代わり大谷隊を指揮して奮戦しました。専精寺に石碑がありますが、推定地であり城跡は確認されていません。

所在地 不破郡垂井町1349

垂井城跡
南宮大社

美濃一の宮である南宮大社は、金山彦命を主祭神とする全国の鉱山・金属業の総本宮です。関ケ原合戦では兵火により全ての社殿を喪失、その後、春日局の働きかけで、徳川3代将軍家光により現在の社殿が再建されました。本殿・拝殿・楼門など18棟が国重要文化財に指定されています。

所在地 不破郡垂井町宮代1734-1
電 話 0584-22-1225

南宮大社

垂井町にある関ケ原合戦の東西両軍布陣跡

垂井一里塚(浅野幸長陣跡)

岐阜城攻略の緒戦で瑞龍寺山砦を落とした浅野幸長は、関ケ原合戦では南宮山の西軍勢に備えて布陣しました。江戸時代の中山道一里塚の上に石碑が建っています。

所在地 不破郡垂井町118-1

垂井一里塚(浅野幸長陣跡)
池田輝政陣跡

岐阜城攻略で二の丸一番乗りを果たした池田輝政は、関ケ原合戦では南宮山の軍勢に備えて布陣しました。石碑は、室町時代の史跡である春王・安王の墓と同じ敷地内に建っています。

所在地 不破郡垂井町字御所野

池田輝政陣跡
吉川広家陣跡

毛利家の重鎮・吉川広家は兵約4200で南宮山北麓に布陣。黒田長政を通じて徳川家康と内通し、関ケ原合戦の間、毛利秀元の参戦を最後まで阻止しました。不破高校近くに案内板が立っています。

所在地 不破郡垂井町宮代

吉川広家陣跡
安国寺恵瓊陣跡

毛利家の外交僧として活躍した安国寺恵瓊でしたが、兵約1800は吉川広家の内応で動けないまま退却し、京で捕らえられて斬首されました。南宮山の麓にある西蛇溜池の東側に案内板が立っています。

所在地 不破郡垂井町宮代

安国寺恵瓊陣跡
南宮山・毛利秀元陣跡

西軍総大将・毛利輝元の名代として、約15000の大軍を率いて南宮山に布陣した毛利秀元は、戦意はありながらも吉川広家の内応で動けずじまいでした。山頂一帯に見事な陣城遺構が残っています。

所在地 不破郡垂井町宮代(南宮山山頂)

南宮山・毛利秀元陣跡
長束正家陣跡

豊臣五奉行の一人・長束正家は兵約1500で南宮山東麓に布陣。毛利秀元に総攻撃を呼びかけるも吉川広家の内応で動けず、退却した後に居城の水口城を攻められて自刃しました。陣跡には、案内板が立っています。

所在地 不破郡垂井町宮代

長束正家陣跡
長宗我部盛親陣跡

長宗我部盛親は兵約6000で栗原山に布陣しましたが、戦わずして退却。金屋川原(養老町)で東軍の徳永寿昌・市橋長勝に遭遇し大損害を被りました。案内板は麓の清水寺公園にありますが、本陣は山上にあったと考えられます。

所在地 不破郡垂井町栗原

長宗我部盛親陣跡

島津の退き口

9月15日午後、西軍総崩れの中、最後まで戦場に残っていた島津義弘隊は、敵中突破による前進退却を敢行し、多大な犠牲を出しながらも大将の義弘を薩摩に帰国させることに成功しました。後に「島津の退き口」といわれるこの戦いにより、島津の武名は天下に轟きます。

島津義弘陣跡

9月15日、島津義弘は甥の島津豊久とともに、約1500の兵を率いて小池に布陣しました。午前中は防御に徹して石田三成の援軍要請も断りますが、西軍諸隊が総崩れの中、伊勢街道に向けて敵中突破を行いました。鹿児島の有志による石碑が建っています。

所在地 不破郡関ケ原町大字関ケ原1869-3

島津義弘陣跡
烏頭坂

「島津の退き口」で先鋒を務めていた島津豊久が殿にまわり、追撃する東軍の井伊直政・松平忠吉らを迎え撃って奮戦した場所。鹿児島の有志が建立した島津豊久の碑があります。

所在地 大垣市上石津町牧田烏頭坂

烏頭坂
琳光寺・阿多長寿院盛淳の墓

「島津の退き口」で島津義弘の身代わりとなって戦い、牧田上野で討死した阿多長寿院盛淳を悼み、琳光寺の境内に、宝暦治水の薩摩藩士が刻んだ五輪塔と、子孫により建てられた墓前碑があります。

所在地 大垣市上石津町牧田2487

琳光寺・阿多長寿院盛淳の墓
瑠璃光寺・島津豊久の墓

烏頭坂で重傷を負い、自刃して果てた島津豊久の菩提寺。本堂内に豊久の位牌があるほか、寺の近くの森(カンリンヤブ)の中には、島津塚(薩摩塚)と呼ばれる豊久の五輪塔が祀られています。

所在地 大垣市上石津町上多良

瑠璃光寺・島津豊久の墓

南美濃の戦い

岐阜城の織田秀信に追随して美濃の大名の多くが西軍につく中、居城を西軍方に囲まれた東軍の徳永寿昌と市橋長勝は福島正則の命により、8月16日に福束城、19日に高須城・駒野城・津屋城を相次いで攻略し、南美濃を制圧しました。岐阜城攻防戦よりも前のことです。

松ノ木城跡

城主は東軍の徳永寿昌で、寿昌は戦後、高須城主に栄進しました。城の場所は特定されておらず、御霊神社のあたりといわれています。

所在地 海津市平田町松木

松ノ木城跡
今尾城跡

東軍・市橋長勝の居城で、長勝は福束城の戦いで奇計をめぐらし、東軍を勝利に導きました。今尾小学校のあたりが本丸跡で、校内に石碑と案内板があります。

所在地 海津市平田町今尾4434

今尾城跡
福束城跡

8月16日、東軍の徳永寿昌・市橋長勝らは西軍・丸毛兼利の福束城を攻め、両軍は大榑川で対峙したものの、東軍の夜襲で西軍が混乱して大垣城に敗走し、落城しました。かつて舟運の拠点だった城跡は、明治期の三川分流工事により、揖斐川の中になってしまいました。

所在地 安八郡輪之内町福束城浦(揖斐川河川敷)

福束城跡
高須城跡

8月19日、西軍・高木盛兼の高須城は、福束城を落とした徳永寿昌に欺かれて、落城しました。高須城跡公園を含む周辺一帯が城跡で、散策コースも整備されています。

所在地 海津市海津町高須127-1

高須城跡
駒野城跡

8月19日、高須城を落とした東軍が攻め寄せたため、駒野城主の高木帯刀は、同族の高木貞友の説得を受けて開城しました。城山小学校の敷地内に本丸と土塁、二の丸の一部が残されています。

所在地 海津市南濃町駒野1317

駒野城跡
津屋城跡

8月19日、西軍・高木正家の津屋城は、敗走する高須城兵を追撃した東軍により、たちまち落城してしまいました。城跡には3年後、高須城主・徳永寿昌の許しを得て本慶寺が移されました。

所在地 海津市南濃町津屋2017(本慶寺)

津屋城跡